「花乃ちゃん次、移動教室だよー」
「うん、わかった」




「花乃ちゃんお昼一緒に食べよう!」
「じゃあ購買行く」
「分かった私も付いてく」




「花乃ちゃん今日は一緒に帰れる?」
「いいよ」





「花乃ちゃん帰りに――」
「……遠子ちゃん」
全て言い終わる前に遮られて、私は口を噤んだ。
たいてい、話の腰を折ることなどせず一通り聞いてから反応を返す彼女が、こうして途中で聞き返すのは珍しいことだった。
「なあに?」
嫌な予感を追いやって笑顔を作る。きちんと笑えているのかは分からないけれど。


「最近いつも一緒にいようとするけど、何かあったの」


その一言にサッと自分の体から血の気が引くのが分かった。
なのに心臓はやけにうるさく早鐘を打って耳の奥で鳴る。
「そうかな?何もないけど」
笑顔で返した私に、彼女は腑に落ちない表情を崩さなかった。周囲の事情にはてんで疎い彼女だけれど、こういうときの野生的なカンは冴えている。
「いつもはわりと一人で行動するのも平気じゃない。違う子と一緒にいることも多いし。でも今はなんか私に“べったり”な気がする」
「たまたまだよー。何か嫌だったかな、ごめんね?」
「ううん、そういうんじゃない」
花乃ちゃんが力なく目を閉じて首を横に振る。なんだか彼女にも含むところがあるように見えて、私の中の危険信号が一段と強く光った。
「遠子ちゃん、何かあるとふにゃふにゃ笑ってること多いし」
「そうかなぁ。へらへらしてる私?」
それに答えることはなく、花乃ちゃんがうな垂れてため息をついた。心臓の音が、誰かに聞こえるのではないかと不安になるほど大きくなる。

「あー……やっぱり、何か変に隠しておくの無理だな」
ふいに視線がぴたりと合った。
そのまっすぐなまなざしは、いつだって私の憧れで。
でも今は無性に逃げてしまいたかった。


「ごめん、ホントは理由知ってる」


「え……」
――なにを?……どこまで?
そう訴えるのが分かったのだろう、花乃ちゃんは気まずそうにしつつも自ら口を割る。
「ごめん。縁に聞いて知ってたから。その後のことも、全部知ってる」
それはなぜか妙に納得のいく答え。別に、誰にも知られていないとは思ってはいなかったけれど。
頬が一気に紅潮するのが分かった。
いつから?最初から?どうして?どうして、じゃあ――。

「知っててどうして『何かあったの』とか聞くの」

なんだか分からない悲しさや苛立ちが一気に押し寄せて、口を付いて出てしまう。
こういう、感情をそのまま声に出すのはいけない、と頭の中に警鐘が響く。
いつも私が気をつけていることなのに。今のままじゃ、嫌なことを言ってしまう。
「遠子ちゃんが言わないからだ」
「そういうことじゃない。分かってて、聞く必要ないのにどうして聞くの」
視線の応酬と静かな言葉の攻防。かすかに眉根が寄せられて、そんなことが言いたいんじゃない、と主張しているのが分かる。
頭ではそう分かっても心は付いて来なくて、もちろん行動はもっと付いて来なかった。

「――誰にだって時には、知られたくない事もあるのにね?」

本当に、嫌な言い方。
花乃ちゃんを傷つける言い方を、その時の私はわざとした。

知られたくなかった。
独りよがりの、私の恋。


全部が幻みたいに消えてしまった、その顛末。


「花乃ちゃんにこそ、知られたくないことがあるよ」


――私はずっと憧れていた。
そのまっすぐな姿勢。遠くを見据えるまなざし。
花乃ちゃんの隣でなら俯かない私でいられた。
だけど今、彼女の顔を見ることすら出来ない。


「ごめん、一人で帰るね」




***




「ただいま」
玄関の鍵を開けて、家の中に入る。両親と兄姉、私の5人暮らしの我が家の玄関には、いつもびっしりと靴が並んでいる。
特に片付けの嫌いな兄と姉の靴は放っておくと散乱して酷いことになるので、気付くたびに整理するのが私の役割のようになっていた。
でも今日は、どうしてもする気が起こらない。

(花乃ちゃんと喧嘩してしまった)

いや違う。私が一方的に嫌なことを言って彼女を傷つけただけ。こんなのは喧嘩じゃなくて、八つ当たりって言うんだ。
何も取り繕わなくていい我が家に付いたとたんに、冷静になって物事が考えられる。
「私のばか……」
どうしようという想いばかりが胸を渦巻いて、地に足が着かない気分。
「おかえり」と言われた事にも気づかず、靴を脱いで鞄を持ったまま自分の部屋へと向かう。

そんな私の腕をぐいと掴んで、力強く引き寄せる一人の人物がいた。


「――おや遠子、挨拶もなしかい?」


その声にびっくりして顔を上げる。
よく焼けた額に、目元と口元の深くて優しいしわ。こちらを見る目は生気を一点に集めたように光り、唇には楽しそうな笑みが張り付いている。
ずいぶん久しぶりに見るその顔に、『あれ、ここどこ?』と瞬間的に思ってしまう。それほど、ここにいることが珍しい人物だった。

「おばあ、ちゃん」
「なんだい、元気ないって聞いてたから帰ってきてみたら、ホントに元気ないね!」
「うえ」
ぐに、と頬を左右に伸ばされて、瞳の奥を覗き込まれる。
あ、嫌だ。
そう思っても遅かった。何でもお見通しの彼女には敵う訳もない。
「いつも元気がないと逆にへらへらしてるのにねぇ。さては“失恋”のその後に何かあったか」
「え」
息も出来ないストレートさに固まった私を、祖母は片腕で抱えるように捕獲して自分の部屋へと引きずっていく。
「さーあ、せっかくお前のために帰ってきたんだ。じっくりお聞かせ願おうかね」
その嬉々とした足取りに、声に鳴らない悲鳴を上げる。

「遠子帰ってきたのー?」と扉の向こうの方で、姉が呼んでいるのが聞こえた。


***


祖父母の部屋は、世界中から集められた民族工芸や楽器、衣装で埋め尽くされている。
考古学者として世界各国の遺跡を巡る二人は今、ドイツの大学に客員教授として籍を置いていた。
ヨーロッパを主軸に活動する彼らが、ここへ帰って来るのは毎年たった1度だけ。
それがこうして『お前のため』と言って帰って来るなんて、初めてのことだ。
「一人で帰ってきたの?」
「そうさ。仕事はじーさんに押し付けてね!良いねーこういうの。もっとしようかね」
「おじいちゃん死んじゃうからやめてね」
「はっ、あれが簡単にくたばるタマならとっくに死んでら」
明け透けであっけらかんとした物言い。
呆れながらも実に祖母らしい回答に、彼女が本当にここに居るのだという実感がわいて、緊張が少しだけ緩んだ。

「ホントは、仕事のために帰ってきた?」
私のずるい質問にも、彼女は笑顔満面で答える。
「いいや、カズが『遠子が元気ないので帰ってきて下さい。お願いします』なんて言うからね、思わず二つ返事で分かったって言ってしまったよ」
「え、お兄ちゃんが?」
カズ、は私の兄――万葉と書いてカズハと読む――の愛称である。
「今まで年始の挨拶以外に連絡なんてもらった事すらないのにね。まあ、アレに『貸し』を作っとくのはいいと思ってね」
まるで孫に対する言い方ではない。
でも私の心が一番軽くなる理由を選んでくれたのが分かる。「仕事のために帰ってきた」と言われればやっぱりと思いつつ落胆するし、「私のためだけに」と言われれば、それはそれで苦しかった。
なんて気遣われてばかりで、自分のことばっかりで、人のことを想えない私なのだろう。
「そう……。そんなに元気なさそうに見えたの私」
「さあね。アレは昔っから遠子には甘いからね」
くしゃりと私の頭を撫でる手に導かれて、部屋の真ん中に座らされる。向かい合わせたひざとひざが、触れそうな近さから覗き込まれる。
「それで?失恋して?それから、どうしたんだい」

昔から、祖母になら何でも話せた。話すのが楽しくてたまらなかった。
でも、こんなにも言葉を口にするのが苦しいのは初めてだった。
「ドイツ往復切符代くらいの、凄い人情話を頼むよ?」
面白がるような口調とは裏腹に、そのまなざしは愛しいものを見るそれだから、敵わない。
気を張っていた私の心の糸が、ふつりと切れる音がした。

「――あのね。私、からっぽの失恋をしたから、今度はちゃんと本当の『恋』をね、頑張ろうって思ってたんだけど」

広くて大きな背中が思い出される。
いつからか追いかけていたその後姿。焦がれてやまない彼の姿が――遠ざかって消えていく。


好きだったの。


「でももう会えなくなってしまったの」
ぽつんと零れ落ちるように「ただそれだけ」と言えば、祖母も「ふうん」とだけ返す。
ほんとう。ただそれだけの話なのに。ばかだな。
「遠子」
頭の中に響く祖母の深い声音。
「今、お前が考えてること、当ててやろうか」
にやりと口元がゆがんだから、目が離せずに息を呑む。


「『この苦しみは全部私のせいで、全部私のもので誰にもあげない』」


彼女の言葉はいつだって、私の心を深く突き刺す。


「さあて、……図星だね?」
何も言えない。
でもここで泣く訳にはいかなかったから、私は胸に迫る感情の渦を必死に押さえつけながらその目を見つめ返す。すると彼女はしばし目を瞬いて、驚いたような複雑な表情をした。
「そうか、遠子……お前でもそんな目をするんだね」
厳しくて優しい、相反する温度を持った声が降りかかる。
――そんな目?
鏡はないから、自分がどんな表情をしているのか分からない。でも、彼女の瞳の中に私がいて、こちらをじっと見ている。
「っあ――」
思わず声をあげて身を引こうとした私を許さず、彼女は頬を両手で包み込んで逆に引き寄せた。
けして滑らかでキレイとは言えない、皮膚が厚くてしわの刻まれた男の人みたいな手。
でも彼女の人生の全てが詰まった優しくて熱い手のひらから、じんわりと体温が移る。
「お前も時にはそれくらい、感情を出した方が魅力的だね」
『魅力的』の意味が分からない。
あの瞬間彼女の瞳の奥に見出されたのは、私の知らない私の顔だった。
反抗的で傲慢。自分ひとりが苦しくてお前に何が分かると言い出しそうな、それでいて全部分かっているから何も言うなと懇願するような臆病な目。
あれのどこを切り取ったら『魅力的』の言葉が出るのだろう。
私の中にある嫌な部分が全部凝縮されていた。あんなもの、他の誰にも見せられない。
あれ?でもさっき、私は花乃ちゃんの前でどんな目をしていたの……?

「当たり障りなく生きてたら、誰の人生にも引っかからない。時にはそれくらいの熱量を持ってぶつかる事をしなきゃね、引き止められないのなんて当たり前さ」
誰を、なんてことは言わない。
祖母の手の中に包まれたまま、私は静かに目を閉じた。
「恋愛でも友情でも仕事でも何でも同じさ。心を捧げないと、相手は動かないよ」
心、という単語にふと黒埼先輩が稜悟くんに語った言葉が思い出される。
『まごころ』を込めるのだ、と彼女は言っていた。
「“心”がイコール“感情”ではないよ。感情っていうのはその時々の状況への反応であって、これはその時の自分の置かれた状況や心身的状態でいろいろな結果が出る。でも心はね、もっと冷静で熱いものだ。頭の中で考えてこうと決めたもの。あるいはずっと想い続けるもの」

「もし感情が次々に表情を変える海だとしたら、心は地中深くマグマに温められた温泉だね」
この人はよく、宇宙単位でたとえ話をする。
でもそれはいつも、どこか間が抜けていて面白い。

「人に捧げるなら“心”が良いね」

そうだね。
目を開けて祖母を見上げれば、彼女はパチリとウィンクして見せた。
「時には感情をぶつけるのも人生のスパイスだ。まあ、料理が旨くなるか不味くなるかは紙一重だけどねぇ」
「不味くなった、かもしれない……」
花乃ちゃんとの会話を思い出して、不安な気持ちになる。
しかし、うつむく私をまじまじと見て、祖母の顔がみるみるうちに輝きを増していった。
「なんだい遠子、喧嘩か!喧嘩でもしたのか!?」
「え、あ、そう……」
反射的に頷いてしまう。ボルテージの上がった様子に、マズイと思っても遅かった。彼女はクルリと後ろを向いて部屋の外にいる私の姉の名前を連呼しだした。
「ちゆきーーー!千幸!!赤飯だよ〜〜!遠子が友達と喧嘩したって〜〜〜〜っ!!」
「やめてー!?」
祖母の叫びに呼応して、パタパタとリビングから足音が近づく。バン!と破裂音を立てて部屋の扉が開き、現れた姉は嬉々とした顔で財布を握り締めていた。
「なになに遠子が何だって!?私、あずき買ってくる!」
「いらないっっ!」

――私の抵抗もむなしく、その日の夕飯は父や母に「今日は何かあったの」と聞かれながらお赤飯を食べることになるのだった。