昨日の今日で気まずい朝を迎える。

友達と喧嘩をした次の日は、どんな顔をして会えばいいんだろう。
そう祖母にも聞いてみたけれど、返ってきた答えは全く参考にならないものだった。
「知らん。私の場合はね、大概その場でぎゃんぎゃん言い合って取っ組み合いして先生に怒られてね、二人で廊下に立たされるんだよ。そうこうしてるうちに何か仲直りしちまってねぇ。まあ毎回そんな感じだったね」
なんて、まるで悪ガキのような体験談が飛び出る。
そんな彼女は、今朝早くから「なんか今日は学会があるらしいから行ってから帰るわ」と慌しく出かけていった。本当に嵐のような人だ。
何だやっぱり仕事だったのかと拍子抜けしたが、彼女と直接会って話が出来たとこで、少しだけ落ち着けたと思う。

花乃ちゃんに、何て謝ろう。
どんな風に声をかければいい?どんな風に返ってくるのか、想像が付かない。
でもきっと、いつも通りにした方がいいよね?


「おはよー」
朝の教室に現れた花乃ちゃんの声がした。
けれどそのとたんに、なぜか体が硬直して動けなくなる。
(あれ?私なにやってるの。振り向かなきゃ)
いつもみたいに「おはよう」って言って「昨日はごめんなさい」って言って、そしたらきっと花乃ちゃんが「私こそごめん」って言ってくれて仲直りだ。
(ぜったい大丈夫だから)
緊張を吐き出すようにゆっくりと一息、よし今だ!――そう振り向こうとして、私ははたと動きを止めた。
今の一連のイメージトレーニングをもう一度なぞってみる。


――「私こそごめん」って言ってくれるって、何?


浮かんだ疑問に指先が冷えていくのが分かる。
それは、自分の考えの中に潜んだ『甘え』に他ならない。許してもらえるとかもらえないとか、大事なのはそこじゃないのに。
もっと大事なのは、私が花乃ちゃんに、どんな『まごころ』を返せるかなのに。
(ダメだ私。……今はまだ謝っちゃいけない)
自分に呆れてものも言えず机の上に突っ伏す。
(今謝っても、また繰り返すだけだ。反省している風で、全然していないじゃないか)
ちらりと伺うように首だけ花乃ちゃんの方に振り返ったが、彼女はこちらを見ていなかった。

きっと傷つけたから、落ち込んでる。理不尽なことを言ったから怒ってる。今おはようを返さなかったから、もっと悪化してる。
今日一日これだったら、もっとダメになる。
(考えなきゃ)
冬の荒波みたいな感情じゃない。奥深くから掘り起こす、温泉みたいなあったかいもの。

私が花乃ちゃんにあげたいのは、そっちだ。





でもこの教室の中にいるのは、もちろん私たちだけではなかった。

朝の挨拶がなかった様子、休み時間、移動教室……目を合わせようともしない二人に何かを察して、気を使って動いてくれるのが私のクラスメイトたちだった。
「遠子ちゃん!準備運動、一緒に組もう〜?」
「あ、うん。ありがとうあんずちゃん」
「いいよぉ」
体育の授業、あんずちゃんは笑顔で何も聞かず、昨日テレビで放送されたUFO目撃特集の話を始めてくれた。
きっと聞きたいのは山々だったろうに。いつにも増して饒舌にしゃべるあんずちゃんに、私は心のなかで「ありがとう」を繰り返した。

お昼になれば、日立くんに温室で食べないかと誘われた。
「鈴蘭さたちも来るのす。おめさも来ねが」
「うん、ありがとう」
花乃ちゃんは?と思ってちらりと視線を向ければ、らちちゃんと席を立って出て行くようだった。
かすかに目が合う。一瞬だけ。
「――……温室は、いま何が咲いてるの?」
その繋がりを断ち切るように、私は日立くんに話題を振って視線をはずした。まだ自分を許せていないから、彼女をきちんと見ることが出来ない。
今の行動でまた、二人の溝は増えたかもしれない。
でも――腹は決まった。
クラスの皆がこんな風に心配して声をかけてくれるのだから、私もこのままでは帰れない。

放課後になったら花乃ちゃんを捕まえよう。



***



その決心を抱えて迎えた放課後。
「じゃあ今日はこれで終わり」
「起立」
「ありがとうございました」
挨拶を境にして一気に教室の中はざわめき立ち、部活のある子、委員会の子、帰りに遊びにいく子など、それぞれが思い思いに散っていく。
私も手早く荷物を掴んで花乃ちゃんを追いかけようとしたのだが、そこに待ったをかける声があった。
「日直〜。誰だ、花崎と春川!これを元の所に戻しておいてくれ」
「「あ、はい!」」
指差された「これ」は、直前の授業で使っていた巨大な世界地図。元の場所ということは、別棟の奥にある社会科準備室までだ。
――出鼻をくじかれた。



大きな地図を抱えとぼとぼと廊下を歩く私に、隣で同じ荷物を抱えた冷紀くんが心配そうにこちらをチラチラと見る。
「春川、大丈夫か?」
「うん。大丈夫重くないよ」
大丈夫かと聞かれる理由が他にあることは自覚しているものの、とりあえず知らないふりをする。冷紀くんなら、この雰囲気を感じて深い事情には突っ込んで来ないだろうという、ある種の信頼があった。
案の定、何か言いたそうな顔をしつつも、彼は「ならいいけど」とだけ呟いて前を向いた。そのまま二人で、まっすぐ続く廊下を歩く。
花乃ちゃんはもう帰っちゃったかな。

三時半で窓の外はまだ明るいけれど、夕暮れ前みたいな眠たい日差しに、暮れるのがどんどん早くなるのを実感する。
社会科準備室に着いた私たちは、二人で抱えてきた地図を所定の位置に戻した。冷紀くんが2本持ってくれたおかげで私が運んだのは1本だけだったけれど、すでに腕が少しだるい。
「冷紀くんありがとう」
「ん」
短い返事に、さっきのことで気を悪くさせてしまったかな、と思う。でもこれは私が勝手に気にしているだけで、本人はそんな風には思っていないだろうけれど。
「あ」
冷紀くんが何かを思い出したように自分のポケットを探りだす。何か忘れ物でもしたのだろうかと思って、私はなんとなく立ち去れずにその様子を見守った。
ズボンのポケットにはなかったらしく、続いて上着のポケットを探る。どうやら見つかったらしく「あった」と小さく呟いたので、私もほっとした。
「――春川、手出して」
「え?」
名前を呼ばれて驚く。意味は分からないまま、冷紀くんの声に促されて両手を差し出した。その上に小さな包みが一つ、ころんと落とされる。
「昨日ゲーセンで取ったやつ。やるよ」
自分の手もとに視線を落とすと、小さな飴が一袋。子供のころによく食べた、懐かしい甘いスモモ味のキャンディーだ。

「……早く、仲直りしろよ」
小さく笑われる。
呆れたみたいな、でもあったかいその笑い方に恥ずかしくなって「うん」と呟いてうつむいた。
冷紀くんは一人、そのまま準備室を出て行く。
私はその後姿を見送って、手のひらの中の飴をもう一度ゆっくりと見た。
たんぽぽの絵が描かれた包み紙。優しい色合いの素朴な花になんだか癒される。
(そういえば、裏返したところに花言葉が書いてあったっけ)
懐かしく思い出して、ちらりとめくって確認してみる。

『 タンポポの花言葉  まごころの愛 』

――それがあまりにジャストタイム過ぎて、私は危うくそれを取り落としそうになった。まるで今日のキーワードみたい。
飴の包みを手のひらにぎゅっと包み込んで胸に押し当てた。温かいものが奥から湧き上がってくるのが分かる。
冷紀くんってば、魔法使い?
もちろん彼がそんなこと知っていたはずもないけど。

私のポケットの中でケータイのバイブレーションが鳴った。

『メール受信:花乃ちゃん』

なんだか可笑しくて自然と笑える。
――神様が言ってるみたい。
大切な人を、大切にしなさいって。
「あーあ、音葉先輩には説教しときながら、ほんとに懲りてないのは私だったね」
独りごちて、私も準備室を後にする事にした。
窓の外には高い空が見える。背筋が伸びた。
彼女に会いに行く時はいつだって、そういう風に心が正される気がする。


『メール本文:私、教室で待ってるね』



***



どうやって話そう。何て言って謝ろう。そんなことをぐるぐると考えていたのに、教室について彼女の姿を認めたとたん、その思考は即座に霧散する。
私の席でうつぶせに眠っている、長い黒髪の女の子。
「――花乃ちゃん」
反応しないけれど、きっと起きてはいるのだろう。ひくりと肩が動いたのが見て取れた。
「待っててくれたの、ありがとう」
教室に足を踏み入れて近づくと、彼女は少しだけ頭を持ち上げて私とは反対方向に顔を傾けた。その顔を見ようと私はわざと反対側に回りこむ。
今日一日まともに見ることが出来なかったせいで、なんだかとても久しぶりな気がする彼女の顔は――だいぶ不貞腐れていた。

「花乃ちゃんごめんね」
あんなにどうやって謝ろうかと考えたのに、出てきた言葉はたったそれだけだった。花乃ちゃんの顔を覗き込んでも、視線はそらされてしまう。
「……遠子ちゃんなんてもう知らない」
突っ伏した腕の中で、くぐもった声がぼそりと呟かれた。
「うん、ごめん」
「昨日のことよりも、今日の方がずっと辛かった」
「ごめん」
本当にその通りだった。私もごめん以外には何も出てこなかった。
「私も、知ってて黙ってたり、知ってて聞いたり、嫌なことしたけど」
「ううん」
「私だって縁から聞きたかったわけじゃなくて、遠子ちゃんから聞きたかったし。遠子ちゃんに相談して欲しかったし、頼って欲しかったのに。でも遠子ちゃんが何も言わないから」
「ごめん」
花乃ちゃんの言いたいこと、考えていることが『まごころ』だって分かる。それは行動も言葉も全部、私の事を想ってくれている。
ねえ、そんな風に想ってもらえるなんて幸せは他にないよ。
私から差し出せるものなんて、まだとても小さいものしかないけれど。でも受け取って欲しいな。
そう思って、鞄を開けてそっと小さな包みを取り出した。
「ごめんね花乃ちゃん」
「ごめんごめんって、遠子ちゃんそればっか――」
勢いよく顔を上げた花乃ちゃんの鼻の先に、私は無言でクマのぬいぐるみを押しつけた。
「えっ……」
手のひらに乗るくらいのビターブラウンのクマ。驚く彼女を尻目に私は口を開いた。
「この前、被服部のクラフト講座に参加した時に作ったの。色が花乃ちゃんに似合うなって思って、前に花乃ちゃんがウサギ作ってくれたの思い出したら、私も作りたくなって。初めてだからあんまり上手じゃないけど、花乃ちゃんにあげたいの」
それだけ一口で言いきる。花乃ちゃんはクマをじっと見つめたまま、ゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取った。
「ウサギ、忘れていいのに……」
不服そうに口を尖らせる。私はクマから手を離さずに、その小さな腕を動かして彼女の頭にタッチさせた。
くしゃりと艶のある黒髪が少し乱れる。
「ごめんね。私、いつも花乃ちゃんに甘えて……大事なことを話さなかったり、うやむやにしたりしてるね」
「別に、いいけど」
「私の辛いこと、一緒に分かち合おうとしてくれて、ありがとう」
ふるり、彼女の頭が左右に振られた。
「私、縁に言われるまで分かんなかったくらい鈍感なんだ。きっとこんな風に、気付けていないことが他にもたくさんあると思う。そうやって、気付かないうちに誰かを傷つけたり、遠ざかっていかれたりするのが嫌だ」
「うん」
「全部話してなんて言わないけど。でも遠子ちゃんが辛いときに、力になれないのは嫌だ」
「うん、ありがとう」
私も同じことを思っているよ。
そんな想いを込めて、精一杯笑って見せた。
なのに花乃ちゃんはまた不貞腐れた表情に戻るから、解せない。
「今、またっ!うやむやにされた気がする」
「してないよう」
「いいや、したね」
クマを握りしめて花乃ちゃんがうめく。


そんなに握り締めると、中身が出ちゃうんだからね。
『まごころ』を込めて作ったんだから。



ディア・マイ・ビターフレンド





「クマ、ビターチョコレートの色でしょ。花乃ちゃんっぽくて」
「なんでミルクチョコレートじゃないの」
「うん」
「うんじゃない」


いつもあなたには、甘えてしまうから。
私にはビターなくらいが、ちょうどいいよ。



 
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