冬が駆け足で近づいてくる。


私は窓辺で空を見上げながら、長く息を吐き出してみた。まだ白くはならないけれど、空気は冷たく澄んでいる。
西に傾いた日差しに、教室の中には大きな影が伸びていた。この学校に来てもう2年が過ぎようとしているんだなと、変な感慨に浸りながら教室を見渡す。
何度も何度も繰り返し文字を書いては消された黒板。一日の大半を預けることになるイスと机たち。掃除当番表の貼られた掲示板。
2−Cの文字が書かれた時間割に目を移すと、ちょうど廊下から教室に入ってくる一つの人陰があった。
「あれ、春川まだいたんだ」
現れたクラスメイトの冷紀くんは、なにやらいろいろな資料を抱えている。
「冷紀くんこそ」
「あー……」
少し言いよどんだ彼に首をかしげる。
「なんか進路調査でいろいろ聞かれた。面倒くさいな」
「ああ。こないだ書いたやつかぁ」
彼が持っていたのは各大学のパンフレットのようだった。
先日、私たちにとっては初めて進路調査があり、それぞれが受験や就職などに向けてどう動けば良いのかと浮き足立ち始めていた。
「もうすぐ高3だしな」
「悩むよね」
無言でこくりと頷く冷紀くん。彼も自分の将来を決めあぐねているのかもしれない。
かく言う私だって、未来のビジョンなんて白紙状態である。自分が何になりたいかなんて、まだよく分からないよね。

二人して窓辺で何となくたそがれる。
『あの時』みたいだ、と思ったら声に出していた。
「――あの時みたいだな」
違う。私ではなく冷紀くんの声だった。彼も同じことを考えていたらしい。
「覚えてたんだ」
「忘れないよ」
小さく目が合って、すぐに離れる。そのまま二人の視線は空の遠くへ投げられた。

――あの時。
私たちの大切な一人の女の子とお別れをしたあの時。「もう会えないのかな」と力なく呟いた彼に、私はなんと言ったっけ。

「今はあの時の反対だね」
「え?」
冷紀くんが私を見て不思議そうな顔をする。空に視線を預けたまま、それが分かって少し笑う。花乃ちゃんにも結局何も言わずに終わらせたくせに、なぜだか今、冷紀くんになら話せそうな気がする。彼が聞きたいかどうかは全く別問題だけれど。
沈黙で、少し間を置く。冷紀くんが瞬きをする音が聞こえた。

「今度は私が失恋しちゃった」

それだけ言い放って、冷紀くんを見る。もちろん初めて聞くだろう話に、目をしばたかせて突っ立っている姿が可笑しくて、場違いに笑いそうになる。
「――それでね、もう会えなくなっちゃった」
少し頑張って明るく言ってみたけれど、声の震えは隠れていないままだった。嫌だなぁ。

あの時、冷紀くんはどんな気持ちだったんだろう。私はあの日の彼に思いを馳せる。
私のあの言葉にあなたは何て思ったの?私、無神経なことを言わなかったかな?今になって不安になる。
「春川……」
「うん」
冷紀くんの声は心地良いな。目を閉じれば澄んだ風をまぶたに感じた。
「……こんな風にお別れするって思ってなかった。何も、伝えないままだった」
後悔ばかりした。あの時こうしていれば、ああしていれば。
そうすれば繋ぎ止められた?
「『もう会えないのかなぁ』って、冷紀くん。私があの時返した言葉は、間違っていたかな。冷紀くんは笑ってくれたけど、でもホントはあの言葉すら辛かった?」
そうだったら悲しい。そう思って私はまぶたを開いて冷紀くんを見る。
でも目の前の彼は静かに微笑んでいたから、何も言えなくなってしまった。
小さく、唇が動く。

「『――そんなことない。また、巡ってくるよ』」


「『運命みたいな、ものだから』」



あの日の記憶に、今が重なる。
冷紀くんからもたらされた、あの日の私の言葉。
込み上げる熱いものが私の喉を締め付ける。
ぱらぱらと雨粒のように、こぼれる雫が頬を弾んで落ちた。


「――春川」
焦った声が、遠くから響いている。

「ねえ冷紀くん。あの日、あなたはこんな気持ちだったの?」
心が、枯れそうだった。



さみしい。
それが一番に零れ落ちた、最も純粋な気持ち。

さみしい。

さみしい。


会いたい。


もっとずっと、あなたと一緒にいたかった。




心の奥底に知らずに眠っていた想いが堰を切ってあふれ出す。
涙を止める術を知らなくて、私はひたすら声を殺して泣きじゃくり、冷紀くんはどうしたら良いか分からないと言う表情のまま、でもずっとそばで待っていてくれた。
私が泣き止むまでずっと。


日が沈む。
長く長く伸びる影が、私と冷紀くんの間に少しだけ開いた距離を壁に映し出していた。
ずっと黙ったままだった冷紀くんがおもむろに口を開く。
「なあ、“はやぶさ”って知ってるか?」
「――はや、ぶさ?」
あまりに唐突な質問に、私の思考回路が逆回転を始める。
「小惑星探査機の“はやぶさ”の方」
それは、惑星『イトカワ』を目指して旅立ち、見事サンプルを地球に持って帰ってくることに成功した小さな探査機の名前。
一時は交信が途絶えさえしたものの、奇跡的に復活を遂げて世界初の小惑星サンプリングに成功したという経緯から、メディアを騒がせ映画化までしたのは少し前の話になる。
ああそっちの方、と一瞬納得しかけるが、いややっぱりなぜそんな話題になったのかが掴めない。
私は続く言葉に耳を傾けた。
「あれってさ、『イトカワ』にたどり着くまでに2年くらいかかってるんだけど」
それは初耳だった。冷紀くんは淡々と続ける。
「初めの1年は地球と同じ軌道を回るんだ」
「うん」
「でも同じ軌道のままではイトカワにはたどり着けない」
「うん」
イトカワは地球の軌道よりも外の惑星だから、と冷紀くんは手を使って地球の軌道とイトカワの位置を示した。そこへたどり着くためには、より大きな軌道を描かなくてはいけないという。
ならばどうやって、はやぶさはイトカワにたどり着いたのだろう。
「はやぶさは、1年同じ軌道を回ってもう一回地球に近づいたときに、その引力と少しのエンジンの噴射だけで加速して、新しい軌道に飛び出したんだ」

地球の引力を利用して、加速して飛び出す。
新しい、軌道へ。

「これをさ、“スウィング・バイ”っていうんだ」
「スウィング・バイ……」

地球にバイバイって、手を振るみたいなのかなって、想像したら可愛い。

小さく笑ったら、彼の方は予想以上に真剣な顔をしていたから、私はそれを引っ込める。
静かで、でも熱い瞳が光る。
「――俺たちもさ、たぶん、そんな感じのことが出来ると思うんだ」
急に冷紀くんが大きなことを言った。考えたこともない思いつきに、彼を見遣る。
「スウィング・バイ、みたいなこと?」
「そ」
――あ。笑った。
「春川も、俺も。いつかスウィング・バイして、新しい軌道に飛び出るよ」

冷紀くんの優しい声に心が呼応するのが分かった。


「春川なら、丸くて形の良い円が描けそうだな」

その言葉に、私は空を吸い込むように大きく深く息をした。



ああ、今だ。
――今が私の、スウィング・バイ。



新しい軌道へと飛び出る。その小さな、でも大きなエネルギーを、受け取った気がする。

冷紀くんは空を見上げて微笑んでいた。
その横顔を見ながら、私は、ひとり泣きたいくらいに心が満たされていた。
一緒に空を見上げる。


暮れなずむその空の向こうの向こう方には、私たちの未来もあるのかもしれないね。



さあ行こう。

新しい世界を見に行こう。



だから、少しだけ――バイバイ。



スウィング・バイ






大きく手を振ったら、青い地球が見えた。


それは涙のような色。

それは――幸せの、鳥の色。



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