春川遠子。17歳。

――私、今なら、捕獲されたウサギの気持ちが分かる気がします。



さっきまで、下駄箱へ向かおうとのんびり廊下を歩いていたはずだった。
なのに今、なぜ隣には芽衣ちゃんがいて、なぜ風を切るような物凄い勢いで驀進しているのだろう。

「もう怒った!知らない!!浮気してやるーー!!行くわよ二人とも!?」
憤怒の化身となった音葉先輩に捕獲されたウサギその1とその2――私と芽衣ちゃんは、下校しようと廊下を歩いていたところを、たまたま先輩の行く手にいたというだけで現在の状況に至っている。
「え、音葉先輩、どこに?」
「浮気とかだめだよー?」
まさにそれは“捕獲”という表現にふさわしく、有無を言わせないガッチリとしたホールドに私は逃げられずにいた。


「良いの!あんな奴しらない!!もっと別の可愛い男の子とイチャイチャしてやるんだから〜〜〜〜!!」


周りに多数いる生徒たちは、まるで女王陛下に行く手を空けるようにサッと身を引いて遠巻きにこちらを見ている。
(モーゼの十戒を見ることになるとは……)
どこか人事のように自分を観察する私の隣で、一緒に捕獲されている芽衣ちゃんは「すご〜い」などと感心している。

もちろんそんな場合ではない。

「あのっ!?音葉先輩!落ち着きましょう。末口先輩と喧嘩したんですか?仲直りしましょうよっ、ね?浮気なんて……」
「――甘いわ遠子ちゃん」
「えっ」
ぐいと寄せられた丸い額にたじたじと後退りする。
「いい?あのノー天気バカは私に心酔しすぎて肝心なことをすっかりコンと忘れてるのよ。もうこの際、浮気なんてどっちでもいい!私は憂さ晴らしがしたい!!」
いま何か、超展開な理論が繰り広げられた気がするのに、最終的な主張は実に完結だった。


「逆ナンしにいくわよっ!」


明らかに発車前から波乱含みの列車が出発するベルが鳴った。


***


「逆ナンとか私初めて〜。楽しそう!あきくんとか誘えばよかったな〜」
芽衣ちゃんの実にのんきで的確に的のずれた発言に、私はほんの少し疲労感を覚える。
「あのう?帰りませんか?」
「私も〜。ナンパ待ちくらいはしたことあるけど、逆は初めて。誰が良い?さあイケメン探して!」
「二人とも!帰りましょうよ!」
「良いじゃない遠子ちゃん。こんなのもうノリよ!ノリと勢い☆」
「三人組〜イケメン三人組〜、どこかな〜?」
私の意見は無視されたまま、物色を始めた二人。このままでは本当に連れて行かれてしまう。えも言われぬ危機感が一瞬の内に全身を駆け巡った。
(どうしよう……。助けて末口先輩……!)

「あっ、前方にイケメン発見であります隊長〜!」

両手を双眼鏡のように掲げた芽衣ちゃんが、楽しそうに声をあげる。
「うむ、芽衣隊員くわしく報告したまえ」
「駅前の歩道橋を渡っている3名の男子学生、はげしくイケメン臭がするです」
「「よし、特攻〜〜!!」」
「ちょっえっ、二人とも!?早いですよ!?」
走り出す二人に腕を引っ張られて、私も足をもつれさせながら付いて行くしかなかった。
どうしてそんなに楽しそうなの……?
(でも、いや、そんなに簡単につかまる訳もないし――)

そう楽観した私が悪かったです。反省しています。
こんなに可愛い女子二人の誘いを断る男の子がいる訳もなかったです。


「そこの3人〜?私たちとカラオケでも行かない〜!?」


テンションの高い明るい逆ナンに遭遇した彼らは、一様に目をぱちくりさせたが、声をかけた音葉先輩たちにピントが合ったとたん、目を輝かせて大きく頷いた。
え、そんな好反応、普通、されるものなのデスカ?


「「ハイ!よろこんでーーっ!!」」
三人組のうちの茶髪の彼とヘアバンドをした彼が、身を乗り出すように音葉先輩の手に飛びついた。

「「え」」
そこで私と同じ反応してくれた残りの彼と、今ものすごく握手を交わしたかった。



***



――どうしてこうなった。

カラン、音を立ててガラスのコップの中で大きな氷が崩れる。


「音葉でーす!」
「芽衣だよ!」
「……」
「遠子ちゃんでーす!!」
がっしりと両脇からホールドされ『楽しんで、とーこちゃん!』などと言われるものの、どこを楽しめばいいか分からず泣きそうだ。
「3人とも庭束?わー俺、知り合いいるよー!……って、あーでもちょっと嫌なセンパイ思い出したけど〜」
明るい茶色の短髪の彼がなぜか遠い目をする。
いったい誰がいるのだろうか?
彼はうう〜んと唸りながら頭をふるふる左右に振ると、今度はパチンとスイッチを切り替えたように勢いよく跳ね起きてパッと笑って見せた。
せわしないけれど、人好きのする笑みに好感が持てる。
あれ、でも――。
少しの引っ掛かりを覚えた気がしたけれど、それは彼の元気な声の前に霧散した。
「言いそびれた!俺、夏央でーす!特技は、おっとすごい目で見られたからナイショー!!こっちは“かけるん”でーす!」
彼が指し示したのは、3人の中で一番背の高い男の子。
芽衣ちゃんが言うところの“イケメン臭”がする、そつない好青年という感じ。
ただ周りに恵まれな……いや、恵まれすぎたのだろうか、苦労人臭も漂っている。
「……翔、です」
はああぁぁ、長いため息に、これまでの苦悩の歴史が目に見えるようだった。
そんな彼を押しのけて、最後の一人、ヘアバンドの彼が前に出る。
「ハイハーイ!俺、太一くんね〜!特技はー、ハイッ!っと」
おどけた口調でポンと打った手のひらから、三本のかわいらしい花が取り出された。
「「わあ!すご〜い!」」
「可愛いお嬢さんたちに捧げましょう〜」
ニコッと生き生きとした表情で笑うから、私もそれを反射的に受け取ってしまう。
ふわり、本物の花の匂い。
どこから湧いてきたのだろう?単純な疑問に周りをチラリと観察すると、ガラス扉の向こう、廊下に置かれた小さな花瓶に花が生けられているのが見えた。
その視線気づいてか、太一くんは私に目配せして『ナイショに』と小さく合図した。
慣れた風の物腰に、でも不快な感じは全くしない。

拍子抜けして、私は少し肩の力を抜いた。
正直、あんなに簡単に誘いに乗るなんて、怖い人を捕まえてしまったんじゃないかと思っていた。
でも音葉先輩が釣り上げたお魚は、実はとてもいい巡り会わせだったのかもしれない。
大きな引力を持っている先輩をまじまじと見ると、「なに?遠子ちゃんお腹すいた?ケーキでも頼む?」とメニューを見せてくれる。おそらく自分が食べたいのだろう。
「はい、食べます」
「だよね!私パフェにしようかな。期間限定マロンパフェ!あ、でもやっぱイチゴにする。栗の色がなんかアイツを髣髴とさせてムカつく」
――音葉先輩の周囲に急に暗雲が立ち込めた。
でもその横顔が、どことなく寂しそうに見えたのは私の気のせいだろうか。先ほどまで喧嘩のことなど全く忘れた風にはしゃいでいたのに、やっぱり気になっているのだ。
まだメニューから顔を上げない音葉先輩に気づかれないように、私は鞄からケータイを出してそっとアドレスを呼び出す。
彼女を本当の意味で笑顔にしてくれる人へ、メール送信。


「じゃっ!自己紹介も終わったところで一曲いっちゃう?夏央クン?」
「え〜いっちゃいます?太一サン?」
夏央くんと太一くんが、マイクを手に立ち上がって小さなステージへと向かう。
流れ始めた音楽に、芽衣ちゃんがタンバリンを軽快に鳴らした。

「「ワンナイ☆カーーニバルウゥゥゥー!!」」





「え〜翔くん彼女いないの!?うっそだー!」
「え、いや」
「じゃあじゃあ好きなタイプは?」
「えーと」
ステージの二人が歌い踊る中、席に残された翔くんが芽衣ちゃんと音葉先輩の質問攻めに遭っている。
それ横目で見ながらふと、先ほど感じた小さな引っ掛かりを思い出して、私は改めて夏央くんを見遣った。どこかで見たことがあっただろうか?こんなに明るくて印象強い子だから、直接会っていれば忘れそうにない。では、写真か何かで見たのかもしれない。
誰かと楽しそうに写っているその姿を――。


「「エーンジェールッ!!」」


歌に合わせて叫ばれたフレーズが、いま突然、私の頭の中に響き渡った。
「あっ!」
思わず立ち上がった私に、全員の視線が集まる。


「“なっちゃん”くんだ。桜ちゃんの彼氏の」


桜ちゃんは、高校は別だけれど私の可愛い後輩で。
以前、彼女が『幼馴染で、ずっと好きで、やっとまた出会えた大切な彼』と言って見せてくれた――あの写真に納まっていたのが彼だ。
そこまで思い出してハッとなる。
……音葉先輩の逆ナンに、二つ返事で付いてきた、桜ちゃんの彼氏くん?

「えっえっ、桜の知り合いですか!?」
案の定、夏央くんがマイクを持ったまま驚きの声を上げた。
「やっぱり?え?桜ちゃんはどうしたの桜ちゃんは」
「や〜えへっ☆」
ナンパ日和だったもんで!とおどける夏央くんにめまいがする。
「えへじゃありません!」
彼女持ちがこの場にいる事はまあしょうがない。音葉先輩だってそうだしおあいこだ。
でも可愛い後輩の彼氏がここにいる事は『良し』ではない。


「――音葉先輩!!」

「はい!?」
いきなり名前を呼ばれた先輩は、びっくりした様子で腰を浮かせる。
彼女越しに視界に入るガラス扉の向こうに、一つの人影が目に入った。

「そちらに末口先輩がお越しですので仲直りしてください」
「ええっ?」
「そして夏央くんは、桜ちゃんを呼びます」
「え!」
慌てだす二人に、きょとんとする他のメンバーたち。
メロディーのない“カラ”の音楽だけが響き、完全に私が場の雰囲気を変えてしまったのは分かっている。
でもね、大切なことは大切なの。

「気づいていないかもしれないけど、喧嘩して仲直りできるって、それはとても特別なことなんですよ。大切な人がいつまでも一緒にいてくれる保障なんて、どこにもないんですからね!今、せいいっぱい大切にしてください!」

マイクなしで、叫ぶ。

「ハーイ!」
元気よく返事をしたのは芽衣ちゃんだった。
「じゃあ私、あきくん呼ぶ!」
行動派の芽衣ちゃんの片手には、既にケータイが握られている。
その早さに呆気に取られはするが、みんなの呑んでいた息がそっと吐き出され、場の空気がじんわりと緩むのを感じた。さすが芽衣ちゃん、と思わざるを得ない。
「え?じゃあ俺、妹呼ぼうか!もしもし桃音チャン〜?今から兄ちゃんとカラオケランデブーする〜?ってあれ、キラレタ!」
妹さんに一蹴された太一くんに、翔くんが可笑しそうに吹きだした。おそらく今日、私たちが会ってから始めての笑顔。
「桜呼んじゃうんデス?」
「呼んじゃうんです」
頭を抱える夏央くんを尻目に、私は問答無用でメールを1本入れた。
世間は狭いのだから、気をつけないとね?夏央くん。


「……ぷぷー?」
中の様子を伺っていた末口先輩が、彼女の愛称を呼びながら恐る恐る室内へ足を踏み入れる。
一方の音葉先輩はツンと口を尖らせて腕組みをして、あからさまな態度で彼から顔を背けた。
「ぷぷ〜ごめんよ?」
「許さん。何で私が怒ってるのか分かんないんでしょ。許さない」
「ええっ、そんな悲しいこと言わないでよ、ぷぷ〜?」
泣きつくその表情は、本当に困っているのがよく分かる。
「どうして喧嘩になったんですか?」
解決の糸口を探ろうと、私は二人の間に割って入る事にした。
いつも“庭束一のバカップル”と親しみを込めて揶揄されるくらい仲のいい二人。喧嘩をしてもいつも怒っているのは音葉先輩で、末口先輩はニコニコしたり宥めたり、怒っているところを私はまだ見たことがない。お互いのことを好きなんだなぁって、二人を見ていればよく分かる。
「幹也がわるいの。私がピアスなくしたの、“そんなものくらい”って言うから!」
「いや、それは。ぷぷが気を落としてたから、気にしなくて良いよって意味で」
「良くない!あれは私が幹也に一番初めにもらったプレゼントだったのに!それを“そんなものくらい、次の買ってあげるよ”って。バカ!わたしはあれじゃないと嫌なのに!なのに、なくしちゃった……っ!」
急に音葉先輩の目に込み上げた大きな涙の粒に、私たちは目を丸める。
「幹也のっバカっ!」
その両の腕が泣きつく先は、やっぱり彼の元で。
ふわりと抱きとめた末口先輩の手のひらが、彼女の髪を優しくなでた。


((((( ああ、バカップル…… )))))

明らかになった喧嘩の理由に、他の全員がため息混じりで首を振る。でもとても二人らしいから、憎めないなと思う。
きっと誰しも、彼らみたいにお互いを深く想い合える相手を探しているんだ。
――そんな人が見つかったら、きっと捕まえて離さないでね。




喧嘩の後で、いつにも増してラブ度の高い二人の雰囲気に当てられながらも、残りの面々も今一度座りなおしてカラオケを再開する。
“憂さ晴らしの逆ナン”から始まったにもかかわらず、全員がすでに打ち解けている感じで、なんだか面白かった。

「ところで、音葉先輩がなくしたピアスってどんなやつですか?」
そういえば誰かさんもピアスをなくして一緒に探したな、と複数の顔が頭をよぎった。その思考に邪魔されて、質問をしておきながら音葉先輩の答えが耳を素通りする。
「えー赤い丸い石のピアスだよ」
そうそう、稜悟くんが赤いピアスを千帆ちゃんのだと勘違いして届けてくれたりして。
「一番初めにもらったんですよね。へー、赤いの……ん?」
「ん?」
どうかしたの?という音葉先輩の顔を見ると、パッチリと視線が合った。
「それ、こないだ神棚にお供えました」
「うん、神棚?」
「職員室の忘れ物入れです!グラウンドに落ちてたって稜悟くんが」
「うそ、そうだよ!体育の後なくなってるのに気がついて。っえ、ほんとに!?やった〜!幹也!あったよ〜」
「やったねぷぷ〜」
「よかったぁ!!――あ、でも新しいのも頂戴ね☆」
「うんうん!……ん?」

フリーズする末口先輩の隣で、可愛らしい天使のような音葉さまが、そのまなざしに慈悲をたたえて微笑んだ。



無重力ベイベ!!





笑って泣いて微笑んで。天使?小悪魔?
君には逆らえない。無重力の女神。


きっと、いつまでもお幸せに。



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